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才色兼備!ブルック・シールズ/美人の代名詞!世界的ヒット作に出演したスターをご紹介!
90年代に購入していた映画雑誌でのスター人気投票を参考に、海外俳優たちを紹介していこうと思います。今回は、一世を風靡した才色兼備のスター、ブルック・シールズです。
ブルック・シールズ
(Brooke Christa Camille Shields)1965年5月31日生まれ
【出生地】 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市
【職 業】 俳優、モデル
ミズ・ブルックは、子供モデルからキャリアを重ねた実力派女優です。ハリウッド・スターとしての地位確立や、社会貢献の活動をご紹介していきます。
生い立ちからキャリアについて

ブルック・シールズは、実業家の父と女優で映画プロデューサーの母の長女としてニューヨーク市で生まれました。
ミズ・ブルックは、母親のマネジメントのもとで幼い頃よりモデルを始めます。両親の離婚後も活動を続け、アメリカで一番の高額ギャラを得る人気子供モデルになりました。
1977年、ホラー映画『Alice, Sweet Alice』で端役(主人公の妹役)として映画デビューを果たします。15歳の時にはカルバン・クラインのジーンズのCMに起用されています。
1980年の『青い珊瑚礁』と1981年の『エンドレス・ラブ』が連続でヒットした事により世界の人気スターとなりました。若手女優のトップに躍り出て“美人の代名詞”とされる様になります。
1982年、プリンストン大学(仏文学を専攻)へ進学しました。以降、しばらくは学業中心の生活を送っています。その後、プリンストン大学を首席で卒業し、女優業を本格的に再開します。
1996年からはコメディドラマやブロードウェイ・ミュージカルに出演し、再び人気女優の地位を獲得します。
1997年4月19日、男子プロテニス選手のアンドレ・アガシと結婚しますが、1999年4月に離婚しました。
2001年4月、脚本家でテレビプロデューサーのクリス・ヘンチー氏と再婚しました。2003年・2006年に2子が生まれています。
主な出演作品の評価
青い珊瑚礁

20世紀初頭の南太平洋で、幼いエメラインとリチャードは船火事で無人島に流れ着きます。ともに生き残った老水夫パディは自力で生き残るすべを二人に教えていきます。彼の死後、成長した二人は思春期を迎え子供っぽい友情は初々しい愛へと育っていきました。やがて子供が生まれ新しい生活を始めますが…。
この作品のヒットをきっかけに、ミズ・ブルックは世界的スターとなりました。
プリティ・ベビー

娼館の人々のドラマを悲喜こもごもに描く“遊郭モノ”作品です。20世紀初頭の米南部を舞台に名匠ルイ・マルが美しく描き上げた本作は、ヒロインの少女娼婦役にブルック・シールズを起用した衝撃の名作です。
この作品に出演したことで、同世代から相談メールが寄せられるようになります。当時としては、衝撃的な寄稿をしたことで青年期は悩みが尽きなかったそうです。
エンドレス・ラブ

“絶世の美女”と評されたブルック・シールズ主演。監督は「ロミオとジュリエット」など古典劇映画やオペラの演出で有名なフランコ・ゼフィレッリ。ダイアナ・ロスとライオネル・リッチーが歌う主題歌が大ヒットしました。
17歳のデヴィッドと15歳のジェード。お互い運命の恋と信じ、二人はいつでも一緒です。両親らも二人の交際を温かく見守っていましたが、二人が深い関係にあることを知るとジェードの父親が激怒して交際禁止期間を言い渡しますが…。
『青い珊瑚礁』と立て続けに本作品も世界的ヒットとなり、ミズ・ブルックは若手女優のトップに躍り出ました。
社会貢献について

ミズ・ブルックは、自伝や児童書なども執筆しています。また、産後うつ(postpartum depression)や皮膚がんの闘病などを公表し、社会的な関心を呼びました。以下、ご紹介します。
自伝について
『プリティ・ベビー』に出演したことをきっかけに同年代の女性から性についてたくさんの相談メールが寄せられるようになったといい、そんな女性たちに「したくないことはしなくていい」と伝えたいという思いから、大学生のためのガイダンス本『On Your Own』への寄稿を決めたそうです。
ミズ・ブルックは当時を振り返り「今にして思えば、処女であることをオープンにしたのは間違いだった」と後悔を語った上で、それ以降年配の男性からの「不気味なインタビューに応えなければならないことが増えた」と、その苦しみを明かしました。
一方で、「私は『世界で一番有名な処女』になって、あのような形で矢面に立つことになったけれど、そのおかげでこの業界で色々な困難に対応できるようになったとも思う」と、青年期の苦悩を乗り越えて今のキャリアがあると、前向きな発言もありました。
児童書について
ミズ・ブルックが、初の児童書『Welcome to your World, Baby』を出版した際の談話です。この本は、シールズさんの娘ローワンちゃん(当時5才)が妹のグリアーちゃん(当時2才)の誕生をいかに楽しみに見ていたかを、ローワンちゃんの視点から描いています。
2人目の妊娠が分かった日からローワンちゃんが言ったことを記録していたとし、それを基にした同書は「彼女が書いたようなもの」と語りました。
産後うつについて
ミズ・ブルックは、『産後うつ(postpartum depression)』に関する長編ドキュメンタリーの製作総指揮とナレーションを手がけました。
『When The Bough Breaks(原題)』は、産後うつと出産前後の気分障害に関するドキュメンタリーです。ミズ・ブルック自身、第1子出産後に産後うつで苦しみ、自殺も考えたことがあったといいます。2006年にはその経験を綴った著書『Down Came The Rain: My Journey Through Postpartum Depression』を上梓し、5人に1人の母親が発症すると言われているにもかかわらず、未だ情報の少ない産後うつに対する意識を高めるための活動を行っています。
また、本ドキュメンタリーのプロデューサー陣、またプロデューサー兼監督のジェイミーリン・リップマンもみな産後うつの経験者だといいます。
皮膚がん予防について
15歳で出演した大ヒット映画『青い珊瑚礁』をはじめ、10代の頃より日焼けを楽しんできました。小麦色の肌を誇ってきたミズ・ブルックが、少し前に、皮膚科で顔面に出来た前がん状態の皮膚細胞の除去手術を受けていたことを明らかにしました。「オゾン・ホール、紫外線と皮膚ガンの関係は、もはや“日光浴”を悪者とし、育児教室で厳しく教わる現代であり、サン・ブロック剤もあれこれ店頭に並んでいます。ですがあの頃は違いました」と、ミズ・ブルックは米芸能誌『People』に語っています。
沿岸育ちで常に海で遊び紫外線を浴びて育った人より、ニューヨーク育ちのミズ・ブルックがそうであったように、日焼けの危険を知らずに無防備にビーチで肌を焼いてしまった世代が、医学的には今最も心配されるようです。「10代、20代などに突然サーフィンなどを始め、強い紫外線を浴び続けたという40代、50代の皆さんは、くれぐれも皮膚の変化に気を付けて欲しい、お子さんたちには必ずサン・ブロックで防備を」とミズ・ブルックは訴えています。
日本でのエピソード

【時事通信社】
ミズ・ブルックの日本に関するエピソードを以下のとおりご紹介します。
- ミズ・ブルックは親日家であり、日本では多数のテレビCMなどで親しまれてきました。フジテレビ『新春スターかくし芸大会』で和太鼓演奏を披露したこともあります。
- 天皇徳仁(今上天皇)は、若き皇太子時代、日本人では柏原芳恵、外国人ではブルック・シールズの熱烈なファンであったと、積極的にではないにしろ公言しておられました。殿下(当時)とミズ・ブルックはおおよそ同世代(殿下が5歳年上)で、オックスフォード大学に留学していた頃(1983-1985年)から交流があります。同大学時代の学生寮の自室には、ミズ・ブルックのポスターなどが飾られていたことは当時のトピックとして話題になっていました。
(Wikipedia参照、livedoor news 編集部 Joy横手、SPUR.JPサイト、ロイター エンタテインメント 2008年6月24日9:33 午前、映画.com ニュース、https://www.sonypictures.jp、洋画専門チャンネル ザ・シネマサイトより引用)
主な作品紹介
数ある作品の中から、私見で代表作を掲載します。ミズ・ブルックの作品をぜひ楽しんでください。
青い珊瑚礁
プリティ・ベビー
エンドレス・ラブ