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反逆児!?ポール・ニューマン/ハリウッドレジェンド!世界が憧れる名優をご紹介!
90年代に購入していた映画雑誌でのスター人気投票を参考に、海外俳優たちを紹介していこうと思います。今回は、愛され続ける大スター、ポール・ニューマンです。
ポール・ニューマン
(Paul Leonard Newman)
1925年1月26日生まれ/2008年9月26日(83歳没)
【出生地】 アメリカ合衆国 オハイオ州
【職 業】 俳優、映画監督
半世紀以上にわたり第一線で活躍して、今なおファンを魅了し続けるサー・ポール。彼の生い立ちから出演作品、そして慈善事業家としての活動などをご紹介します。
生い立ち
スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父とスロバキア系でカトリックの母との間に生まれます。7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団します。高校卒業後は、家業を継ぐためにオハイオ大学経済学部で学びますが、第二次世界大戦が勃発し海軍に入隊しました。1945年春、空母・バンカーヒルに乗艦し沖縄戦に参加しています。
終戦後は、子供の頃に学んだ演劇の道を志します。卒業後、地方の劇団を渡り歩き演劇の修行に励むかたわら、1949年に結婚しました。演劇講師になるために進学したイェール大学大学院で披露した演技が、プロデューサーの目に留まり、ニューヨークに招かれました。
俳優としての活動

初の大役となったブロードウェイの舞台での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザースと5年間の専属契約を交わします。1954年に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たしますが、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなりました。同期のジェームズ・ディーンとマーロン・ブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』で世界的トップスターへと上り詰める一方で、映画を離れ活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移します。ポールはテレビドラマでスターへの足掛かりをつかみました。
舞台とテレビドラマにおける演技が賞賛されたポールは、ジェームズ・ディーンの急逝により主演のポストが空白となっていた映画『傷だらけの栄光』に、監督の依頼を受け出演します。実在のプロボクサーの話し方や癖を模倣するなど徹底した役作りをして臨んだ作品は、高く評価されました。ポールは、一躍注目を浴びる存在となります。最初の妻と離婚後、舞台で共演した女優ジョアン・ウッドワードと再婚します。さらに初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えました。
飛躍の時代
1960年代はニューマンにとって飛躍の時代となりました。『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受賞すると、『ハッド』での受賞を機に、ゴールデングローブ賞の“世界で最も好かれた男優”に3度選出されました。
さらに、妻を主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』では同年度のアカデミー賞で作品賞を初めとした4部門にノミネートされました。それに、ゴールデングローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では監督賞受賞に加えて、妻に女優賞をもたらしました。
1969年にロバート・レッドフォードと共演したアメリカン・ニューシネマの『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録します。“マネー・メイキングスター”の1位に選出され、世界的トップスターとしての地位を不動のものにしました。さらに製作者としての飛躍を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社を設立しました。
『ファースト・アーティスツ』設立後、初めて製作を担当した映画『レーサー』でのレーシング・スクールへの参加を機に、カーレースに熱中するようになります。44歳にしてレーサーとしてプロフェッショナルデビューを果たしました。俳優業でも成功は続き、ロバート・レッドフォードとの競演した『スティング』は、同年度のアカデミー作品賞を受賞しました。翌年の『タワーリング・インフェルノ』での報酬は100万ドルに達しました。
1980年代以降
1970年代後半は不振続きであった俳優業も、1980年代に入ると『評決』などに出演し、社会派作品でリアリティのある演技を披露しました。
還暦を超えても第一線での映画出演を続けたポールは、『ノーバディーズ・フール』でベルリン国際映画祭などで数多くの男優賞を受賞します。『ロード・トゥ・パーディション』で9度目となるアカデミー賞ノミネート(初の助演男優賞部門)を果たすと、80歳を迎えた年にはテレビドラマ『追憶の街 エンパイア・フォールズ』でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞します。翌年、ピクサーのアニメーション映画『カーズ』でメインキャストのドック・ハドソン役で声の出演を担当します。
止め処無く活躍を続けるポールですが、2007年5月、出演したテレビ番組において加齢による演技力・記憶力の衰退から自分の納得する演技が不可能になったと語りました。そして、俳優としての活動を引退することを正式に発表しました。
2008年、がんの化学治療のため専門病院に入院していましたが、8月に退院し自宅治療に専念していました。コネチカット州の私邸において死去しました。
【主な受賞歴】
アカデミー賞
1986年 主演男優賞『ハスラー2』
1985年 名誉賞
1993年 ジーン・ハーショルト友愛賞
AFI賞
アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100(ヒーロー部門第20位)
2003年『明日に向って撃て!』
エミー賞
2005年 助演男優賞
(ミニシリーズ/テレビ映画部門)『追憶の街 エンパイア・フォールズ』
ゴールデングローブ賞
1968年 監督賞『レーチェル レーチェル』
2005年 助演男優賞
(シリーズ・ミニシリーズ・テレビ映画部門)『追憶の街 エンパイア・フォールズ』
1983年 セシル・B・デミル賞
1956年 新人俳優賞『銀の盃』
全米映画俳優組合賞
2005年 男優賞(テレビ映画・ミニシリーズ)『追憶の街 エンパイア・フォールズ』
1985年 生涯功労賞
(Wikipedia参照)
実業家として
自家製のサラダを自慢していたポールは1982年、冗談半分で食品会社『ニューマンズ・オウン』を設立しました。
極力食品添加物を排除したフレンチ・ドレッシングやランチドレッシングは好評を博し、パスタソースやポップコーンの販売にも着手し事業拡大に成功しました。純利益を全額、貧困にあえぐ子供たちに寄付しています。
サー・ポールにとって私生活での著名な活動の1つである『ニューマンズ・オウン』は、四半世紀に及ぶ運営で挙げた2億2000万ドルの純利益を全額恵まれない子供たちに寄付しています。1993年には、その功績に対しアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られました。俳優としての活動に終止符を打った後は、これらの事業や家族とのコミュニケーションに専念する意向を示しました。
2007年6月、中西部オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約10億円)の寄付を申し出ました。「母校への個人的愛情や恩義」と説明しています。
奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人のマイノリティーの学生らに支給されていくという意向です。
主な作品紹介
数ある作品の中から、私見で代表作を掲載します。サー・ポールの作品を、ぜひ楽しんでください。
栄光への脱出
ハスラー
ハッド
暴力脱獄
レーサー
明日に向って撃て!
スティング
タワーリング・インフェルノ
評決
ハスラー2
ロード・トゥ・パーディション
カーズ
ミーアキャット
カーズ/クロスロード