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卓越した演技力!フェイ・ダナウェイ/70年代のハリウッドを駆け抜けたスターをご紹介!
90年代に購入していた映画雑誌でのスター人気投票を参考に、海外俳優たちを紹介していこうと思います。今回は、70年代のハリウッドを代表する女優の一人、フェイ・ダナウェイです。
フェイ・ダナウェイ
(Faye Dunaway)1941年1月14日生まれ
【出生地】 アメリカ合衆国 フロリダ州バスコム
【職 業】 俳優
名作に次々と出演し、70年代のハリウッドを代表する女優の一人として活躍しました。マダム・フェイは卓越した演技力で、映画界のレジェンドとして尊敬されています。彼女のキャリアや、社会貢献の活動などをご紹介していきます。
生い立ちからキャリアについて

フェイ・ダナウェイは、アメリカ合衆国フロリダ州バスコムで陸軍軍曹の娘として生まれました。スコットランド、イングランド、アイルランド、ドイツの血を引くと言われています。彼女はボストン大学の演劇科で学び、1962年に卒業しました。その後、米国国立演劇アカデミーに所属して舞台で研鑽を積みました。
彼女の映画デビューは1967年の『真昼の衝動』でしたが、同年に出演した『俺たちに明日はない』で演じたボニー・パーカー役で一躍有名になりました。この作品でアカデミー主演女優賞に初めてノミネートされました。その後も『華麗なる賭け』、『チャイナタウン』、『コンドル』などのヒット作に出演し、1976年には『ネットワーク』でアカデミー主演女優賞を受賞しました。彼女は70年代のハリウッドを代表する女優の一人として活躍しました。
1981年には伝記映画『愛と憎しみの伝説』でジョーン・クロフォードを演じましたが、その毒親ぶりが物議を醸しました。この作品でラジー賞主演女優賞を受賞しました。彼女は世評に挫けてロンドンに移住しましたが、1987年に帰国し、『バーフライ』で復帰を印象づけました。1996年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名を連ねました。2011年以降は演技を休止していましたが、2017年に『バイバイマン』、『ダブル/フェイス』で再復帰しました。
私生活では歌手のピーター・ウルフと結婚しましたが離婚し、後に写真家テリー・オニールと結婚しましたが、こちらも離婚しています。彼らの間には1980年生まれの息子リーアム・オニールがいますが、2003年にオニールは、息子のリーアムが養子であったことを明らかにしました。
主な出演作品の評価
俺たちに明日はない

この作品は1967年に公開された犯罪映画で、実在した銀行強盗コンビのボニーとクライドの物語を描いています。マダム・フェイはボニー・パーカー役でウォーレン・ベイティと共演しました。この作品は当時のアメリカ社会に衝撃を与え、新しい映画のスタイルを確立しました。マダム・フェイはその美しさと強さを兼ね備えたヒロインで、観客の心をつかみました。彼女はこの作品でアカデミー主演女優賞に初めてノミネートされました。この作品は現在でも映画史上の名作として高く評価されています。
チャイナタウン

この作品は1974年に公開されたネオ・ノワール映画で、ロサンゼルスの水資源をめぐる陰謀を追う私立探偵の活躍を描いています。マダム・フェイはエヴリン・モーレイ役でジャック・ニコルソンと共演しました。この作品は複雑なストーリーと衝撃的な結末で話題になり、多くの賞を受賞しました。彼女はその神秘的で悲劇的なヒロインで、観客の記憶に残りました。この作品でアカデミー主演女優賞に2度目のノミネートされました。現在でも映画史上の傑作として高く評価されています。
ネットワーク

この作品は1976年に公開された風刺映画で、テレビ業界の裏側と社会の狂気を暴露しています。マダム・フェイはダイアナ・クリステンセン役でウィリアム・ホールデンやピーター・フィンチと共演しました。この作品はその鋭いメッセージと痛烈な皮肉で話題になり、多くの賞を受賞しました。彼女はその冷徹で野心的なテレビプロデューサーで、観客の驚きを誘いました。この作品でアカデミー主演女優賞を受賞しました。
以上がマダム・フェイの主な出演作品の評価です。彼女はその卓越した演技力で多くの名作に貢献し、映画界のレジェンドとして尊敬されています。
【主な受賞歴】
アカデミー賞
1976年 主演女優賞『ネットワーク』
AFI賞
アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100(悪役部門第32位)
2003年『俺たちに明日はない』
英国アカデミー賞
1967年 新人俳優賞『俺たちに明日はない』
エミー賞
1994年 ゲスト女優賞(ドラマシリーズ)『新・刑事コロンボ』
ゴールデングローブ賞
1976年 主演女優賞(ドラマ部門)『ネットワーク』
1984年 助演女優賞(シリーズ・ミニシリーズ・テレビ映画部門)『Ellis Island』
1998年 助演女優賞(シリーズ・ミニシリーズ・テレビ映画部門)『ジーア/悲劇のスーパーモデル』
社会貢献について

マダム・フェイは、女優としてだけでなく、人道主義者としても活動しています。彼女は、世界中の貧困や紛争、病気などに苦しむ人々を支援するために、様々な慈善団体やプロジェクトに参加しています。例えば、以下のような活動を行っています。
- 2001年には、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使に任命されました。その後、2023年までに、ネパール、アゼルバイジャン、イラクなどにある難民キャンプに38回訪問しています。彼女は現地の人々と交流し、彼らの声を世界に届けるために努力しています。
- 2003年には、エイズ撲滅を目指す国際的な運動“RED”の創設メンバーとなりました。この運動は、REDブランドの製品やサービスを購入することで、アフリカのエイズ患者に医療や教育を提供する資金を集めています。彼女は自らもRED製品を着用し、広告やイベントにも積極的に参加しています。
- 2010年には、ハイチで発生した大地震の被災者を支援するために、『ハイチ・ライジング』のチャリティーガラに出席しました。このイベントでは、オークションやコンサートなどが行われ、約600万ドルの寄付金が集まりました。彼女は自らもオークションに出品し、高額で落札されたことが報じられました。
以上がマダム・フェイの社会貢献の一部です。彼女は自分の名声や影響力を使って、世界中の困難な状況にある人々を助けることに情熱を持って取り組んでいます。彼女の活動は多くの人々から尊敬や感謝を受けており、彼女自身もその喜びを語っています。
日本でのエピソード

マダム・フェイの日本とのエピソードについては、以下のとおりです。
- 1970年に初めて日本を訪れました。彼女は『小さな巨人』のプロモーションのために来日し、東京や京都などを観光しました。彼女は日本の文化や風景に感動し、着物や花火などを楽しみました。彼女は日本の映画ファンにも熱烈に歓迎され、サインや握手に応じました。
- 1983年に再び日本を訪れました。彼女は『二つの顔の貴婦人』のプロモーションのために来日し、東京や大阪などで記者会見や試写会に出席しました。彼女は日本の映画界に敬意を表し、黒澤明監督や三船敏郎さんなどと交流しました。彼女は日本のファッションや美容にも興味を示し、和服や着付けなどを体験しました。
- 1996年に3度目の来日を果たしました。彼女は『ドン・ファン』のプロモーションのために来日し、東京で記者会見や試写会に出席しました。彼女は日本の若い世代にも人気があり、多くのファンから声援を受けました。彼女は日本の食文化にも触れ、寿司や天ぷらなどを堪能しました。
以上がマダム・フェイの日本とのエピソードです。彼女は日本と親しみを持ち、何度も訪れることで日本との絆を深めました。彼女は日本の映画ファンからも愛され続けています。
(Wikipedia参照、Microsoft Bing引用)
主な作品紹介
数ある作品の中から、私見で代表作を掲載します。マダム・フェイの作品をぜひ楽しんでください。
俺たちに明日はない
華麗なる賭け
小さな巨人
三銃士
チャイナタウン
タワーリング・インフェルノ
コンドル
ネットワーク