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自分スタイル!ジャン・ポール・ベルモンド/フランス映画界の至宝!20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人をご紹介!
90年代に購入していた映画雑誌でのスター人気投票を参考に、海外俳優たちを紹介していこうと思います。今回は、フランス映画界の至宝!ジャン・ポール・ベルモンドです。
ジャン=ポール・ベルモンド
(Jean-Paul Belmondo)
1933年4月9日生まれ/2021年9月6日(88歳没)
【出生地】 フランス ヌイイ=シュル=セーヌ
【職 業】 俳優
ムッシュ・ジャン=ポールは、運動に興味がありましたが、本当の夢は俳優になることでした。演技を学び、映画デビュー後は端役から徐々に注目されるようになります。“ヌーヴェルヴァーグ”の代表作、『勝手にしやがれ』に出演し名声を得ます。その後もジャンルを問わずキャリアを重ね、“フランス映画界の至宝”として、多くの名作に出演した名優です。世界中の映画ファンに愛された彼のキャリアや、社会貢献の活動をご紹介していきます。
生い立ちからキャリアについて

ジャン=ポール・ベルモンドは、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで生まれました。彼の両親はともに芸術家で、父は彫刻家、母は画家でした。彼は幼いころから運動に興味を持ち、ボクシングやサッカーに熱中しました。しかし、彼の本当の夢は俳優になることでした。国立高等演劇学校に入学し、舞台で演技を学びました。1957年には映画デビューを果たし、端役から徐々に注目されるようになりました。
彼の名声を決定づけたのは、1960年に公開されたジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』でした。この映画は、“ヌーヴェルヴァーグ”と呼ばれる新しい映画運動の代表作となり、ムッシュ・ジャン=ポールは自動車泥棒のミシェルという役で、無軌道で破滅的な若者の姿を鮮烈に演じました。この映画は、世界中で大きな反響を呼び、一躍スターとなりました。彼はその後もゴダール監督と組み、1965年には『気狂いピエロ』に出演しました。この映画では、彼は殺し屋のピエロという役で、コメディと悲劇を織り交ぜた独特の演技を見せました。
ムッシュ・ジャン=ポールは、シリアスなドラマだけでなく、アクションやコメディにも挑戦しました。彼は、自分でスタントをこなすことで知られ、多くのアクション映画で活躍しました。1970年には、アラン・ドロンと共演した『ボルサリーノ』で、マフィアのボスになる二人の男の友情と裏切りを描きました。この映画は、フランス映画史上最大のヒット作となり、ムッシュ・ジャン=ポールとムッシュ・アランの競演は夢のようなものでした。彼はその後も、『リオの男』や『プロフェッショナル』などのアクション映画で、カリスマ性とユーモアを兼ね備えたヒーローを演じました。
ムッシュ・ジャン=ポールは、コメディ映画でも大きな成功を収めました。彼は、ジョルジュ・ランズ監督やフィリップ・ド・ブロカ監督と組み、『いぬ』や『男はつらいよ』などのコメディ映画に出演しました。自分の顔の特徴を生かして、さまざまな表情や仕草で笑いを誘いました。彼は、コメディ映画でもアクション映画でも、常に自分のスタイルを貫きました。
主な出演作品の評価
勝手にしやがれ

“ヌーヴェルヴァーグ”の代表作として名高いこの映画は、ムッシュ・ジャン=ポールの出世作となりました。彼は自動車泥棒のミシェルという役で、無軌道で破滅的な若者の姿を鮮烈に演じました。世界中で大きな反響を呼び、彼は一躍スターとなりました。この映画は、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。また、アメリカの映画雑誌『Sight & Sound』の批評家が選ぶ歴代映画ベストテンでは、2012年に第13位にランクインしました。
気狂いピエロ

ゴダール監督と再び組んだこの映画では、ムッシュ・ジャン=ポールは殺し屋のピエロという役で、コメディと悲劇を織り交ぜた独特の演技を見せました。この映画は、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞しました。また、フランス映画批評家協会が選ぶ年間ベストテンでは、第1位に選ばれました。
ボルサリーノ

アラン・ドロンと共演したこの映画は、マフィアのボスになる二人の男の友情と裏切りを描きました。この映画は、フランス映画史上最大のヒット作となり、ムッシュ・ジャン=ポールとムッシュ・アランの競演は夢のようなものでした。この映画は、フランス映画祭で最優秀作品賞を受賞しました。また、フランス映画批評家協会が選ぶ年間ベストテンでは、第4位に選ばれました。
以上が、ムッシュ・ジャン=ポールの主な出演作品の評価についてご紹介しました。シリアスなドラマからアクションやコメディまで、さまざまなジャンルの映画で高い評価を得ました。
【主な受賞歴】
カンヌ国際映画祭
2011年 パルム・ドール名誉賞(長年の功績に対して)
ヴェネツィア国際映画祭
2016年 栄誉金獅子賞
ロサンゼルス映画批評家協会賞
2009年 生涯功労賞
セザール賞
1989年 主演男優賞『ライオンと呼ばれた男』
社会貢献について

ムッシュ・ジャン=ポールの社会貢献について、以下のとおりご紹介します。
- ムッシュ・ジャン=ポールは、俳優としてだけでなく、芸術家としても活動しました。父の影響を受けて彫刻を学び、自身の作品を展示したり、他の芸術家の作品を収集したりしました。自らの彫刻作品をパリの公共の場所に寄贈したり、芸術家のための基金を設立したりしました。彼は、芸術の普及と支援に貢献しました。
- ムッシュ・ジャン=ポールは、慈善活動にも積極的に参加しました。子供や高齢者、障害者などの社会的弱者のための団体に寄付したり、支援したりしました。自らの人気と影響力を使って、社会的な問題にも発言しました。アルジェリア戦争の時に徴兵された若者たちの帰還を求める運動に参加するなど、人道的な姿勢を示しました。
- ムッシュ・ジャン=ポールは、フランスの文化遺産の保護にも力を注ぎました。パリの老舗劇場バリエテ座のオーナーになり、その歴史と伝統を守りました。自らも舞台に立って、古典劇や現代劇を演じました。彼は、フランスの演劇界に新たな息吹を吹き込みました。
以上のように、ムッシュ・ジャン=ポールは、俳優としてだけでなく、芸術家、慈善家、文化遺産の守護者として、多方面にわたって社会貢献をしました。フランスの国民的な存在として、多くの人々に愛されました。彼の死は、フランスだけでなく、世界中の映画ファンにとって大きな損失です。
日本でのエピソード


ムッシュ・ジャン=ポールの日本とのエピソードについて、以下のとおりご紹介します。
- ムッシュ・ジャン=ポールは、1963年に初来日しました。このとき、『勝手にしやがれ』のプロモーションのために来日し、東京や京都などを訪れました。彼は、日本の文化や風景に感動し、日本の映画ファンにも熱烈に歓迎されました。
- ムッシュ・ジャン=ポールは、1970年に再来日しました。このとき、彼は『ボルサリーノ』のプロモーションのために来日し、アラン・ドロンとともに日本各地を回りました。彼は、日本のテレビ番組にも出演し、日本語で「こんにちは」と挨拶したり、日本の歌を歌ったりしました。
- ムッシュ・ジャン=ポールは、1988年に三度目の来日をしました。このとき、彼は『ライオンと呼ばれた男』のプロモーションのために来日し、東京や大阪などで舞台挨拶を行いました。彼は、日本の映画界に敬意を表し、黒澤明監督や三船敏郎との共演を希望したと語りました。
以上のように、ムッシュ・ジャン=ポールは、日本との縁が深く、日本の映画や文化に対する愛情を示していました。彼は、日本の映画ファンにとっても、忘れられない存在でした。
アラン・ドロンとの仲良しエピソード



ムッシュ・ジャン=ポールをご紹介するにあたり、ムッシュ・アランとのエピソードはぜひご紹介したいと思いました。SNSでも仲睦まじい様子が投稿されていました。以下、ご紹介します。
- 二人は、1958年に映画『黙って抱いて』で初めて共演し、その後も何度も競演しました。その中でも最も有名なのは、1970年に公開されたギャング映画『ボルサリーノ』でした。この映画では、二人はマルセイユのマフィアのボスになる友人を演じ、その息の合った演技と魅力的なキャラクターで大ヒットしました。この映画は、フランス映画史上最大の興行収入を記録し、二人の競演は夢のようなものと評されました。
- 二人は、映画界でのライバルでありながら、私生活では親友でした。二人はよく一緒に遊びに行ったり、家族ぐるみで付き合ったりしました。ムッシュ・アランはムッシュ・ジャン=ポールの子供たちの名付け親にもなりました。二人は、互いに尊敬し合い、助け合い、励まし合いました。ムッシュ・アランは、ムッシュ・ジャン=ポールのことを“私の兄弟”と呼び、ムッシュ・ジャン=ポールは、ムッシュ・アランのことを“私の友人”と呼びました。
- 二人は、日本でも人気が高く、何度も来日しました。1970年には、『ボルサリーノ』のプロモーションのために来日し、日本のテレビ番組にも出演しました。二人は、日本の文化や風景に感動し、日本の映画ファンにも熱烈に歓迎されました。
ムッシュ・ジャン=ポールは、フランス映画界の至宝として、多くの名作に出演しました。彼は、20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人として、これからも世界中の映画ファンに愛され続けると確信しています。
(Wikipedia参照、Microsoft Bing引用)
主な作品紹介
数ある作品の中から、私見で代表作を掲載します。ムッシュ・ジャン=ポールの作品をぜひ楽しんでください。
勝手にしやがれ
いぬ
リオの男
気狂いピエロ
ボルサリーノ
ハーフ・ア・チャンス