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【偉大な足跡!】ヘンリー・フォンダ

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偉大な足跡!ヘンリー・フォンダ/戦中・戦後の映画界で活躍した影響力のあるスターをご紹介!

 90年代に購入していた映画雑誌でのスター人気投票を参考に、海外俳優たちを紹介していこうと思います。今回は、1900年代の映画界に大きな足跡を残したスター、ヘンリー・フォンダです。

ヘンリー・フォンダ

(Henry Jaynes Fonda)

1905年5月16日生まれ/1982年8月12日(77歳没)

【出生地】 アメリカ合衆国 ネブラスカ州グランド・アイランド

【職 業】 俳優、映画プロデューサー

 サー・ヘンリーは、演技の魅力に惹かれて俳優を目指すようになります。舞台出演を重ね、1900年代の映画界を駆け抜けました。ハリウッド・スターとしての地位確立や、社会貢献の活動をご紹介していきます。

生い立ちからキャリアについて 

ZUMA Press/(c) Copyright 1934 by ZUMA Movie Stills Library

 ヘンリー・フォンダは、アメリカ合衆国ネブラスカ州グランド・アイランドで生まれました。印刷工場を営むクリスチャン・サイエンス教徒の家庭に育ち、幼い頃から絵や文学の才能に恵まれました。12歳の時にはニュース映画で映画デビューを果たしました。

 大学では新聞記者を目指してジャーナリズムを専攻しましたが、卒業はせず、演劇の魅力に惹かれて演技の道を選びました。1928年にサマー・ストック劇団ケープ・プレイハウスに参加し、そこで将来の妻となるマーガレット・サラヴァンや、同じく俳優を目指すジェームズ・スチュアートやジョシュア・ローガンと出会いました。1929年には『The Game of Life and Death』の通行人役でブロードウェイにデビューしました。

 1934年に『New Face』というショーで認められたことがきっかけで、翌年には『運河のそよ風』の主役に抜擢され、ハリウッドに招かれました。1935年にヴィクター・フレミングの同作の映画版で映画デビューし、その後は数々の話題作に出演しました。1940年にはジョン・フォード監督と組んでジョン・スタインベックの小説の映画化『怒りの葡萄』に出演します。主人公トム・ジョード役は当り役となり、初のアカデミー主演男優賞にノミネートされました。1941年にはパラマウント社に貸し出されて『レディ・イヴ』に出演し、ドタバタ喜劇に挑戦しました。

 1941年にはアメリカ海軍に入り、第二次世界大戦に従軍しました。戦後は再びフォード監督と組んで西部劇や歴史ドラマなどで活躍しました。1948年にはブロードウェイに戻り、ローガンの舞台『ミスタア・ロバーツ』で主演し、トニー賞を受賞しました。

 1950年代から1960年代にかけてはテレビドラマや舞台でも活動し、1957年には『十二人の怒れる男』で陪審員長を演じて英国アカデミー賞を受賞しました。1968年には息子のピーター・フォンダと共演した西部劇『ウエスタン』が大ヒットしました。

 1970年代から1980年代にかけては老境を迎えながらも精力的に映画やテレビドラマに出演し、1978年にはAFI生涯功労賞を受賞しました。1981年には『黄昏』でキャサリン・ヘプバーンと共演し、アカデミー主演男優賞を受賞しました。これが彼の最後の映画出演となりました。

 1982年8月12日に心不全で死去しました。享年77歳でした。彼は世界的にも高名な役者の一人で、戦中・戦後の映画界で活躍しました。子にジェーンとピーター、孫にブリジットとトロイ・ギャリティがおり、いずれも同じ俳優の道に進んでいます。

主な出演作品の評価

怒りの葡萄

写真提供:アマナイメージズ

 ジョン・スタインベックの同名小説をジョン・フォードが映画化した社会派ドラマです。大恐慌の時代、オクラホマからカリフォルニアへと移住する農民一家の苦難と絆を描きます。サー・ヘンリーは主人公のトム・ジョードを演じ、彼の成長と反抗心を見事に表現しました。この作品で彼は初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされました。

十二人の怒れる男

(C) 1956 Orion-Nova Productions. All Rights Reserved.

 レジナルド・ローズのテレビドラマをシドニー・ルメットが映画化した法廷ドラマです。殺人罪で起訴された少年の裁判で、陪審員たちが真実を探ろうとする様子を密室劇として描きます。サー・ヘンリーは唯一無罪を主張する陪審員長を演じ、彼の説得力と正義感に溢れた演技が光りました。この作品で彼は英国アカデミー賞外国男優賞を受賞しました。

黄昏

写真:AFLO

 アーネスト・トンプソンの舞台劇をマーク・ライデルが映画化した家族ドラマです。老いた夫婦が湖畔の別荘で過ごす夏の日々を描きます。サー・ヘンリーは心臓病を患う老人ノーマンを演じ、彼の孤独と不安、そして愛する妻との関係を感動的に演じました。この作品は、アカデミー賞では10部門にノミネートされ、彼はアカデミー主演男優賞を受賞しました。

 残念ながら受賞前にサー・ヘンリーは亡くなっていました。授賞式では、彼の娘のジェーン・フォンダが代わりにオスカー像を受け取りました。

【主な受賞歴】

アカデミー賞

 1981年 主演男優賞『黄昏』

 1980年 名誉賞(長年の演劇界、映画界への貢献に対して)

AFI賞

 1978年 生涯功労賞(長年の映画界への貢献に対して)

英国アカデミー賞

 1957年 外国男優賞『十二人の怒れる男』

グラミー賞

 1977年 最優秀スポークン・ワード・アルバム賞『Great American Documents』

ゴールデングローブ賞

 1981年 主演男優賞(ドラマ部門)『黄昏』

 1980年 セシル・B・デミル賞  生涯功労賞

トニー賞

 1948年 演劇主演男優賞『Mister Roberts』

 1979年 特別賞  生涯功労賞

社会貢献について

AFP

 サー・ヘンリーは、俳優としてだけでなく、人道主義者としても知られています。彼は、第二次世界大戦中にアメリカ海軍に志願し、戦争の悲惨さを目の当たりにしました。戦後は、平和運動や公民権運動に積極的に参加しました。ベトナム戦争に反対するデモに参加したり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説を聞いたりしました。また、核兵器廃絶や環境保護などの社会的な問題にも関心を持ち、多くのチャリティー団体や財団に寄付や支援を行いました。

 彼の家族もまた、彼の社会貢献の精神を受け継いでいます。彼の娘のジェーン・フォンダは、女性の権利や気候変動などの問題に取り組む活動家として知られています。息子のピーター・フォンダは、自然保護や先住民族の権利などの問題に関わる映画作品を多く手がけました。孫のブリジット・フォンダは、動物愛護や人道支援などのチャリティー活動に参加しています。

 以上が、サー・ヘンリーの社会貢献についてのご紹介です。彼は、自分の芸術と信念を通じて、世界をより良くするために努力した人物でした。

日本でのエピソード

Steve Schapiro/Getty Images

 サー・ヘンリーは、日本には一度も訪れたことがないようですが、日本の映画や文化には興味を持っていました。1954年 に公開された 黒澤明 監督の『七人の侍』を見て感動し、その後も黒澤作品のファンでした。彼は、1960年 に ハリウッド でリメイクされた『荒野の七人』に出演する際にも、黒澤監督の承諾を得ることを重視しました。

 また、1962年に公開された『長く熱い夜』で、日本人女優の原節子さんと共演しました。彼は原さんと仲良くなり、彼女の演技力や美しさを称賛しました。

 サー・ヘンリーは、日本の映画や文化に敬意を払うとともに、日本のファンからも愛されていました。彼の出演作品は多くが日本でも公開され、高い評価を受けました。特に『怒りの葡萄』や『十二人の怒れる男』などは、日本の映画史にも影響を与えた作品です。彼は、日本で最も尊敬される外国人俳優の一人として認知されています。

 以上がサー・ヘンリーの日本とのエピソードです。彼は、日本と深い縁がある俳優でした。

 サー・ヘンリーは、1900年代の映画界に大きな足跡を残した俳優でした。彼の演技や人柄は、今でも多くの人に影響を与えています。

(Wikipedia参照、Microsoft Bing引用)

主な作品紹介

 数ある作品の中から、私見で代表作を掲載します。サー・ヘンリーの作品をぜひ楽しんでください。

怒りの葡萄

レディ・イヴ

荒野の決闘

アパッチ砦

十二人の怒れる男

ウエスタン

黄昏

ネット配信

 サー・ヘンリーの作品は、現在U–NEXT配信されています。初月無料トライアル中です!この機会にぜひ、ご覧ください!

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  • この記事を書いた人

はもんどれお

こんにちは。はもんどれおです。 これから、大好きな海外ドラマや洋画を紹介していこうと思います。 よろしくお願いします(^ ^) 私の初めての海外ドラマは、当時の教育テレビで放送されていた『大草原の小さな家』です。それから『フルハウス』や『サブリナ』など欠かさず見ていました。 私は、ドラマは吹替で映画は字幕で観る派です。機会があれば、オススメな懐かしい声優さんを紹介していけたらいいな〜と思っています。

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